ゼロは宿の一室の窓際で、すっかり闇に包まれたユピテルの街並みを見下ろし、ため息をひとつ吐いた。
はっきり言ってゼロにも、どうにも難しい展開になってきた。
天地信仰、復古派……これは、信仰が盛んな街になら大なり小なり存在する、必然的な問題だ。
信仰心が強ければ強いほど、現代社会に対する疑問や不満を抱く。これは理解できる。世界各地で頻発する戦争、紛争、小競り合い。そこで用いられる数多くの懐古器。『争いなく、手を取り合う世界』を目指す天地信仰から、外れていく世界の波。
他者に害が及ばない限り、どのような理念も抱くことは自由だ。ゼロも否定しはしない。
ただ、復古派は過激派が多いのも確かだ。戦争国へのテロ行為、要人暗殺、懐古器の強奪。
(ただ……ユピテルでは、そういう気配はない……)
琥珀祭中に復古派がテロを起こすというのはデマ――ゼロも、そうではないかと思う。開催二日目を終えたが、琥珀祭は平和そのもの。順調に進んでいると思う。
そもそも、復古派など、本当にこの街にいるのだろうか……?
何か重大な見落としをしているようで――背中が寒い。
「あの………」
不意に掛けられた声に視線を伸ばす。
《シロサギ亭》の部屋はシンプルだが老舗ならではの落ち着きがある。窓辺に机が一つ、二つ並んだベッドに、壁際のソファとテーブル、風呂とトイレですべてだ。
アルコはすでにベッドでだらだらと横になっていたが、声を出したのは彼ではない。
テンが、部屋の入口でおずおずと立ちつくしていた。バレッタをゼロが壊してしまったため、今はセミロングを三つ編みにしている。
「あのぉ……わたしやっぱり、自分の部屋に戻ってもいいですかぁ……?」
「駄目」
すっぱりと答えて、ゼロはソファに深々と腰を沈める。テンの荷物は、扉側のベッドの上にでん、と乗っかっていた。
年頃の娘に男と同室というのも可哀想だとは思うが、敵の正体がわからない以上、いつどこで何を仕掛けてくるかわからない。少し離れたテンの部屋で異常が起きても、きちんと対処できる保証はない――警戒を怠らず、万全を期すのは軍人時代に身につけた習慣だ。
アルコがぐだぐだと帽子を脱ぎつつ、複雑な表情を浮かべるテンに声を掛ける。
「大丈夫ですよ、テンさん。あの凶悪魔人が手を出せないよう、ボクが見張ってますから!」
「思春期という名の発情期が何を言ってやがる、シバくぞ」
「ちょっとぉ! 誤解を招くような発言しないでくださいよぉっ!」
いつものように掛け漫才を始めても、テンはどこか浮かない顔だ。
仕方なくゼロは息をついて、おふざけモードをオフにした。
「……なんだ。何か言いたいことがあるなら言ってみろ、テン」
ゼロの声に、彼女はびくりと身を固くした。アルコもやっと妙な空気に気がついたのか、ベッドの上で身を起こす。
テンはきまり悪そうに俯いていたが、やがて恐る恐るといった調子で顔を上げた。
「あの……やっぱり、わたしがいると迷惑ですか……?」
テンの言葉に目を瞬く。そういえば彼女は、自分のすることは大抵迷惑に繋がると身を縮ませていたことがあった。自分に自信が持てないことが、テンにさらに負担をかけているのかもしれない。先程の食堂でのゼロの態度を、気にしているのだろうか。
「……あのな。お前ははなから、俺達に護衛を依頼に来たんだろ? その依頼を、俺達は受けた。今さら迷惑だなんて思わねぇよ。仕事だしな」
「でも……」
テンはなおも暗い瞳で沈んでいたが、やがて意を決したように拳を握り、一歩前に出る。
「……でも! だから……わたしだって、皆さんのお役に立ちたいんですっ!」
この二日の彼女の行動を見る限り、下手に動き回られるよりは、おとなしくしていてくれた方が助かる。という身も蓋もないことを叩きつけるだけの非情さはさすがになかった。ゼロも茶々を入れていい相手と場面は見極められるのだ。
テンの決意は固かったらしい。アルコに視線を飛ばし、よくわからない指示を出す。
「アルコ君! そこに置いてあるパンフレット、取ってください!」
彼女はいたって真面目だったようで、ベッドに載った荷物の中からアヒルのメモ帳とペンを取り出し、部屋に進撃するなり、どかりとゼロの隣に腰掛ける。
テンは据わった目で、ベッドサイドの棚にしまわれていたユピテルのパンフレットを持ってきたアルコに、止まるよう促した。
「アルコ君。そのパンフレットの表紙、二秒だけわたしに見せて、しまって」
「ええ……? よくわかんないんですけど……こうですかぁ?」
アルコは戸惑いながらもパンフレットを見せて、すぐに背中にしまう。
テンはメモ帳を開いて、何事か描き始めた。